敬虔なクリスチャンであった祖父が亡くなってから、もう十何年も経つ。
当時、親戚や教会仲間の方々の手で祖父の回顧文集が作られた。
そこに伯母が寄稿した文章には、生前の祖父と伯母との会話のやりとりが刻んであった。
その二人のやりとりが記憶の奥底に深く刻まれていて、何かにつけて脳を掠める。
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水場で衣類を洗う子供の頃の伯母に祖父が一言
「濡れ色は濃いって知ってるか?」と問いかけた。
時が経ち世の中の事を知るにつれ、伯母は「濡れ色」が「濡れ衣」に繋がるのだと解釈するようになった。
濡れゴロモの色は濃いのだ。
そして濡れギヌを着せられ無実を証明出来ない人は、それを晴らす術も無く、さらに黒く、濃く、疑いの目を向けられるようになる。
祖父の残したその言葉を、自分勝手な既成概念にとらわれず物事を多角的に捉えるための自制の言葉としている。
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こんな感じの文章だった。
このやりとりを読んだ当時の私はフムフムと頷くだけだったが、十何年かが経った今、「濡れ色は濃い」という言葉の重みをヒシヒシと感じるようになっている。
「認知」と「認識」という言葉がある。
似ているけれど私には全く別の性質を持った言葉に思える。
例えば100人居て100人が私の事を「○○な人だ」と言ったとする。
でも私自身は「△△な人だ」と思っていたとする。
この時点で私が思う本来の「△△」という自分は、世の中からしてみると存在しないのだ。
これは「○○」だと「認知」されているという事。
でも100人居て、その中の一人でも「△△な人だ」と言ってくれるとするならば
それは「△△」だと「認識」された、という事。
そして私自身は、前者の「認知」という概念を全く必要としていない。
自分が思った事を曲げる事は無いし、誰かが思った事を曲げる必要も無いから。
さらに「認識」に関しても、100%認識される事など到底有り得ない事ももう知っている。
人それぞれ個性があり感性があるのだから。
全く同じ認識などこの世の中に存在しうるはずが無いのだ。
では何を目指せば良いのか、という事になる。
どう生きていけば良いのか、という事になる。
何が一番幸せなのか、という事になる。
「認知」される事で、一体誰が幸せになるのだろうか。
認知は実態のわからない虚像でしか無い。
そしてそれが虚像であると気付いた時、逆に誰かを不幸にするのでは無いだろうか。
「認識」される事で、一体誰が幸せになるのだろうか。
100%認識される事が無いのなら、本来の自分との隙間が埋まる事は無く、寂寥に苦しむのだろう。
そもそも本来の自分という物が存在するのかどうかさえ、怪しく思えて来たのだから
一体、どうすれば良いんだろうね。
私のような凡人だけではなく誰にとっても、どんなに達観しているように見える人であったとしても、例外なく「濡れ色は濃い」という事象を生むという事実を、私はよく考え理解し、自分を納得させる術を見つけなければいけない時なのだと思う。
やる気がゼロどころかマイナスになっている自分を発奮させるための土曜日。
とりあえず、仕事を増やす。
すでに3日以上前に読んだのに、うまいコメントがみつからず、今頃カキコ。
でもやっぱり見つからない〜。